悩んでいる人
こんな方にオススメの記事です。
この記事のもくじ
はじめに
こんにちは、Hikaruです。
音楽を学問として勉強する上で、音楽史というのは欠かせない存在になっています。
特にクラシック音楽家はその当時の音楽を現代に蘇らせる、いわば音楽における時代の案内人とも呼べる役割を持ちます。
そのために各時代にどのような音楽が存在し、どのように演奏されていたのかを知ることが求められます。そのためには、西洋音楽史の学習は避けては通ることができません。
またソロプレイヤーは自身の楽器についての深掘り、すなわちあまねく時代のレパートリーを知り、自分の領域を広げていくことが求められます。
より未来に生まれる人は、過去の人に比べレパートリーが増えるのですから、大変な作業であることでしょう。
例えばトランペットであればフランツ・ヨーゼフ・ハイドンのトランペット協奏曲は有名ですね。他にも多数の協奏曲や幻想曲を含むトランペットをソロとする楽曲が世の中には多く残されています。
しかし各時代のトランペットのレパートリーを見てみると、ある時代だけぽっかりとトランペットの協奏曲のレパートリーが少なくなっている時期があるのです。
トランペットの暗黒期、ロマン派時代
いきなり重々しい表題になりますが、ロマン派時代はトランペット協奏曲のレパートリーにとっては暗黒期と呼べるほどに少ない時期でした。
これはトランペットという楽器の成り立ちに深く関係しています。
まず前提として、トランペットが現在の形になったのは比較的最近だということを頭に入れておいてください。
- 木や動物の骨、金属を筒状にしたもの
- 木製の金管楽器ツィンク(コルネット)が生まれ、音孔を持つ
- ナチュラルトランペットが生まれる
- バルブシステムがトランペットに採用される(現在のピストントランペットとほぼ同様の楽器、1840年頃に誕生)
上記の通り、現在のピストントランペットの原型が生まれたのは1840年頃とされており、ロマン派時代の前半にあたります。
この頃までの協奏曲や楽曲には、音孔が無く自然倍音のみで奏されるナチュラルトランペットや、キートランペットと呼ばれる木管のキーと同様のシステムを持ったトランペットが使用されていました。
ではそれ以後であれば、1840年頃に生まれたトランペットが使用されるようになったかと言うと、必ずしもそうではありませんでした。
ロマン派音楽は古典派時代を経て、音楽家たちがロマン主義(※)を取り入れたことで勃興した音楽のジャンルで、作曲家たちの表現したいことが一気に爆発した時代です。
そのような音楽の幅の広がりに、当時出来上がったばかりのトランペットでは対応することができませんでした。この頃のピストントランペットはまだまだ構造上に欠陥が多かったためです。
実際にワーグナーやベルリオーズはこのピストントランペットが誕生した以降の作品であっても、あえてナチュラルトランペットを採用し、旋律的な部分には楽器として成熟していたピストンコルネットを採用しています。
つまり、ロマン派時代前半においてはまだまだコルネットが主流で、ピストントランペットは日の目を浴びる機会があまり無かったのです。
この流れはロマン派後期に至るまで続き、これがロマン派においてトランペットのレパートリーが少ない暗黒期である理由です。
しかし、ロマン派時代に全くレパートリーが存在しなかったわけではありません。数少ないですが、確かに存在していたのです。
ロマン派時代以前の教条主義・古典主義と言ったものを真逆の思想で、人間個人の感受性や精神性に重きを置いた思想のこと。音楽だけでなく文学、絵画など様々な分野に波及した。
オスカー・ベーメ
オスカー・ベーメ(1870年-不明)はドイツの作曲家・トランペット奏者です。
1870年にドイツにて誕生した彼は、父親よりトランペットの手ほどきを受け、ライプツィヒ音楽院へ入学します。
初期の演奏活動については歴史的に謎に包まれたベーメですが、少なくともドイツの管弦楽団にて演奏を行っていたようです。
ブダペスト歌劇場(現在のハンガリー国立歌劇場の前進)にて演奏。
ちなみに同時期のブダペスト歌劇場にはグスタフ・マーラーが指揮者として在任しており、ベーメはマーラーの指揮で演奏をしていた可能性が極めて高いです。
サンクトペテルブルクへ移り、マリインスキー劇場にてコルネット奏者へ就任。
世界史に詳しい方はご存知かもしれませんが、サンクトペテルブルクはかつてのロシア帝国の首都だった都市です。
レニングラード(サンクトペテルブルクが改称)の音楽学校にて教師に就任。
レニングラード演劇場にて演奏。
以上がベーメの音楽家としての略歴になります。
そして本記事のサムネイルにもなっているトランペット協奏曲ヘ短調は1899年に作成されました。つまりロシア帝国、サンクトペテルブルクへ移った直後のことです。
ロシアン・ヴィルトゥオーソ・トランペット作品集(ヨウコ・ハルヤンネ)
このトランペット協奏曲は実際に聴いて頂くと分かるかと思いますが、低音域から高音域まで幅広く使われた技巧的なフレーズに、悲壮感を感じさせるヒロイックフレーズと、ロシア色の強い楽曲になっています。
またベーメが在学していたライプツィヒ音楽院は音楽家ベルリオーズが創立し、ベーメの協奏曲もベルリオーズのヴァイオリン協奏曲の影響を強く受けており、フレージングに似通った部分があります。
ベーメはドイツ人でありながらロシア楽曲のレパートリーとしてこの協奏曲を作曲したことになります。
そしてこのベーメの協奏曲こそ、ロマン派時代でほぼ唯一と言っても良いトランペット協奏曲であります。
しかしこのような楽曲がなぜ最近になるまで日の目を浴びることがなかったのか、少し世界史を遡る必要があります。
スターリニズムによる外国人芸術の隠匿
ロシア帝国を語る上で避けては通れないのがヨシフ・スターリンの存在です。
スターリンは1922年~1953年に死去するまでソビエト社会主義共和国連邦の最高指導者に君臨します。
そして1924年からスターリニズムと呼ばれる恐怖政治、粛清を行い続けました。この思想には「民族主義」が強く反映されており、いわゆる行き過ぎたナショナリズムです。
これはつまり、外国人の排斥に他なりません。
改めてオスカー・ベーメの来歴を思い出して頂くとお分かりになるかと思いますが、ベーメはドイツ人でありながらロシアで活動する音楽家です。
1934年、つまりレニングラード演劇場で演奏していた最後の年、スターリン政権の大粛清が始まります。この大粛清により1936年、ソヴィエト・ロシアの芸術界を監視するための委員会が設立され、ベーメもドイツ系ということでその憂き目に遭います。そして追放されたオレンブルクにて没したとされています。
この際にベーメの作品もロシア国内、そして世界的に隠匿されたと考えるのが自然で、1899年に作曲されたトランペット協奏曲を含めた曲たちが、スターリニズムが続く1953年までは最低でも無視され続けていました。
そんなベーメの作品は、スターリニズム以降になりようやく評価がされ、徐々に表に出てくるようになりました。特にトランペット協奏曲ヘ短調はロマン派音楽における貴重なトランペットレパートリーとして、現在においても再評価が進んでおり、日本でも音大生やプロのレパートリーの一つとして広く演奏されています。
オスカー・ベーメの作品抜粋
①トランペット協奏曲
本記事のメインとなっているトランペット協奏曲です。
ヘ短調というセンチメンタルな調を用いており、全3楽章形式の協奏曲です。
メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲の影響を強く受けており、ロマン派時代の重要なレパートリーの一つです。
低音域から高音域まで幅広く、技巧的なフレーズが多用されているテクニカルな曲でありながらロシア音楽特有の切なさと情熱を合わせ持つ音楽的にも優れた協奏曲で、演奏効果は大変高いです。
②ロシアの踊り
ベーメの小品の一つで、ロシア民謡をベースに作曲されました。
演奏時間は4分程度と短いですが、技巧的なパッセージとヒロイックなフレーズが織り交ぜられた非常に完成度の高い曲です。
③金管六重奏曲
ベーメが作曲した金管アンサンブルの楽曲です。
コルネット1、トランペット2、ホルン1、トロンボーン1、ユーフォニアム1という独特の編成を持ち、トランペット協奏曲と同じベーメ節を堪能できるアンサンブル曲です。
4楽章形式となっており、全部を通して演奏すると約16分程度の長さとなっています。
まとめ
今回は作曲家オスカー・ベーメについて、彼がトランペットにおいていかに重要な意味を持つのかを解説しました。
音楽は世界史と深く結びついており、今回のベーメは当時のロシアという国の情勢の影響を強く受けていた作曲家の一人です。
私はベーメの作品を高く評価しており、このような素晴らしい音楽が現代において多く世に出ていることは非常に喜ばしいと考えています。
事情は異なりますが、例えばフンメルのトランペット協奏曲なども作曲されたのは1800年代です。この曲はここ数十年になって発見され、今日のトランペット奏者のレパートリーの中でも最重要のものとなりました。
このことから、今でも発見されていないトランペットのレパートリーが眠っている可能性は十分にあります。
現在でも再評価が進んでおり情報が出てくるベーメという悲哀の作曲家、ぜひトランペット奏者の皆様のレパートリーの一つに取り入れてみてはいかがでしょうか?
今回はここまで、それではまた!